謝罪2日常5映画1読書1(午前7時28分)
はっきりした映画評や書評をあまり書かないのは、遠い世界の出来事や人類の未来などという、大きなぼやりとしたものに比べて、よほど難しいからだ。僕はこの節足動物園で、腰に手を当てて遠くを見て格好をつけている馬鹿のままでいたい。鼻毛が三本出てるけど、それは気付いてないんだよ、という立ち位置がとても楽。けれど一昨日書いた文章を昨日読み直して、僕はたいそう鼻毛を気にする人だったという事に気付いた。そして鼻毛は際限なく延びるのだ。
どうせ伸びる鼻毛なら、切り続ければいいだろう、そう思う人もいるだろう。そんな鼻はみっともないから、粘土を詰めてしまえ、そう考える人もいるだろう。
ハッタリの知識でジェネラリストを気取るのは嫌だ、と最近思えて仕方がありません。彼が彼自身を指してそう書いているのであろうことは理解しつつ、鼻毛の伸びを指摘されたと思う。彼が僕に対する嫌悪感を表明したなどと、そんな加害/被害妄想を抱いてはいない。僕は、自分が彼に嫌悪感を抱かれる種類の人間であると気付き、本当に情けなく、悲しくなったのだ。
(遅れて来た青年2月28日雑記より引用)
そんな森のパン屋さんにも悩みがひとつからっぽなパン屋さん、それはきっと、僕だ。違うのは、僕は素敵じゃない。森のパン屋さんのような、素敵な死に様をこれからは見せていきたい。
森のパン屋さんはパンの焼き方をまるっきり知らないのだ
だから森のパン屋さんは今日も泣いている
(森のパン屋さんより引用)
(午前11時34分)
今朝書いた文章を見直して、ひどく呆れた。暗いことばかり引いては、悲しい情けないなどと言うのは大層みっともない。どちらかというと、自虐的な文章は、色白の美青年が咳などしながら書くべきものであって、僕のような四角い体型の人間が書いて良いものではない。さっきまで昨晩炊いた飯を喰いながら百關謳カの「御馳走帖」を読んでいた。面白く、文体や考え方に影響を受けたいと思うが、生半な事では身につかない。何にせよ、精神の均衡を保つ為に、これからは百關謳カの力添えが必要だ。
上記の逡巡をする前に、感想を書いたので載せる。
冒頭から引きこまれるので、僕は好き。でも「なぜだかわからないうちにいっぱいしかられて、夏になった。
」という冒頭の表現が素晴らしいと思えるからこそ、「なぜだかわからないけどしかられて、なぜだかわからないけど昼はスイカをわった。
」という部分につまづいてしまう。ここは「なぜだかわからないけどしかられて、昼はスイカをわった。」ではならなかったのだろうか。それがもし良いのなら「ヤスヒコ君の足は僕よりすこしながいみたいで、ヤスヒコ君のあしあとはすこしずつきえていった。
」も「ヤスヒコ君の足は僕よりすこしながくて、あしあとはすこしずつきえていった。」として、全体が
あ、これ、三島なんじゃないだろうか、美文調で書き直したら三島になるんじゃないだろうか、でも俺三島あんまり読んでないしなあ、困った。ともあれテキコンサイトの批評に書かれていたような「筒井康隆の影響」ではないのは確かだろう。陰脳録の剽窃としてこれを書いたなら、石川君はキチガイだ。
謝罪
先日の文章内で、作品名を間違い、作家先生を混同し、誤認を事実のように書いた事を、作家先生、及び作品のファンの皆様に深くお詫びします。「湘南爆走族」は吉田聡先生の作品で「GTO」「 湘南純愛組!」は藤沢とおる先生の作品で「クニミツの政」は朝基まさし先生の作品でした。事実確認をせず、思い込みで間違った事を書いてしまい、ご迷惑をおかけしました。
物欲の話。
本屋に行ったら、見たことのないエドワード・ゴーリーの絵本が四冊あったので、今度全部買おうと心に決めた。帰りにコンビニでフルタの食玩レイ・ハリーハウゼンを一個買った、出てきたのは「シンドバッド黄金の航海」のケンタウロス、出来はそれなり、カタログ的造形。前蹄の裏が白いのは仕様かしら。あまり続けて買おうという気が起きないのは、オマケの薄さなのだろうね。WTMのようなマニアの薀蓄が付録でついていれば、もう少し購買欲をそそったのに。なんて、昔はハマーモンスターズが食玩で出た!というだけで喜んでいたのが、贅沢になったものだ。
もともと、物を収集して喜ぶ性質ではないので、食玩の場合は、箱を開いて数十分間楽しめるもの以外はなるべく買わないようにしている。本を買う時も同じで、勉強や"押さえ"で買うことができない。だから読んでて当たり前、なんて言われる古典の類を随分読んでない。古書店に行くのは、よっぽど好きな作家の絶版本を探す時だけなので、本が笑うほど大量にあるのは、単に捨てられない性分なだけだ。脳の中のように、未整理の情報がそのまま部屋に溶け出して、侵食する。むしろ部屋の中にぶちまけられた情報が僕の脳を作ってきたのだから、部屋を片付ければ頭脳明晰になるのではないか、と考えて本の整理をはじめると、自分の人生の欠片がそこかしこで見つかって、一人でいるとどうしてもノスタルジーに浸りやすくなるので、まったく整理は進まず、頭の中もぼんやりとかすんでしまう。こうやって灰色にかすんだ視界の向こうには何もなくて、それでいて何かをなしとげたような満足感や、時間を消費したあとに残る少しの後悔だけがこめかみのあたりで偉そうに笑っている。にやにや笑いだけが残っている。
ドキュソと厨房の話、マンガ雑誌の話。
およそ一年前の話を友人としていて、呼びかたをヤンキーとオタクに変えたら一般性があって売り物になるんじゃないかって話で盛り上がったので帰って書こうと思ったら暗い日曜日で似たような事を書かれてしまっていた。しかもうまい、しょぼーん。ついでにマンガ雑誌の話をしよう、少年誌や青年誌には、竹田氏が指摘する通りヤンキーとオタクの二大購買層がある。ヤングマガジンは90年代初頭にオタク層を取り込み他誌の追従を許さなかった。90年代後半に入るやいなや方向性をヤンキー寄りにシフト、相変わらずの売上を誇っている(全体的な売上は落ちているが、相対的には売れている)。このように市場の動向を見抜く雑誌もあれば、ヤングサンデーのように大物連載を失った途端に方向性を見失い、二周遅れの流行を追いながら生彩を失っていく雑誌もある。
少年誌の売上が大幅にあがった1990年末、それを支えたのはオタクの客だった。しかしオタク流行の盛衰はほぼ2年で変わる、90年代中期に遅れて来た出版会のバブル崩壊は、読者層の変化をもたらし、二番煎じ三番煎じのオタク向けマンガは淘汰された。比べてヤンキーには不変の価値観がある。方向性を見失ったと言われる週刊少年マガジンには、「サイコメトラーEIJI」からのスピンアウト作品「クニミツの政」が連載されている。これは政治家を目指す江戸っ子ヤンキーが、持ち前の明るさと真っ直ぐな性根で腐った社会に異議申し立てをするというマンガだ。また、チャンピオンで連載されている「アクメツ」は「コミックマスターJ」でマンガ界の腐敗と希望を描き出した名コンビ作画・余湖裕輝/脚本・田畑由秋が送り出す、暴力的テロ啓蒙マンガである。このニ作品をもってマンガ世界の動向を語るわけではないが、新しいジャンルがマガジンとチャンピオンという二大ヤンキーマンガ誌から生まれている現状を、僕は注目せずにはいられない。
竹田氏の言う「憧れ」を文意から解釈すると、それは「モテ」や「喧嘩の強さ」よりも「状況へ立ち向かう強さ」への憧れになるだろう。ヤンキーのもつ陽の面が、週刊少年サンデーで連載されている「天使な小生意気」で描かれるような、状況に立ち向かう力だと考えれば、この解釈も遠くはないはずだ。オタクはヤンキーの愚直さに憧れ、ヤンキーはオタクの悪賢さに憧れる。今もっともその対決姿勢を明確にあらわしているマンガといえば、ビッグコミックスピリッツで連載されている「オメガトライブ」が浮かぶ。このマンガの中で超人となったヤンキー梶君とヒキコモリ晴烈士の対決は、この時代にあって最も注目すべき戦いである。
尾玉なみえが描いているのはきっとこういう事。
僕は事務所の掲示板に「絶望」と書いた紙を貼っている。絶望を忘れた時に人は何でもない存在になる。人生の意味や、存在意義を求めるのは終りにしよう、神様もカウンセラーも金を払わないと助けてくれないし、世の中の98%はどうしようもないくだらない物で構成されている。残りの2%は言葉にもできない真の絶望だ。お前達は「自分探し」が商品価値を持っているうちにせいぜい儲ければいい、気付かないまま死ぬ奴もいる、そういうものだ。「でも、やるんだよ」という言葉は、小さな希望などではない、大きな絶望のあとに、逃げ出す事もできなければそうつぶやくしかないのだ。
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